昭和42年05月12日 朝の御理解
「四海波静かにて國も治まる時津風」これは謡曲の一節ですけれど、皆んながその様に平穏無事であると云う事を、願わん者はないのですが、果たして、そういう願いが願い通りいったら、どう言う事になるだろうか、一ぺん考えて見るといいですね。どうでしょう「四海波静かにて國も治まる時津風」私共の願いとする、一つの理想郷であるかも知れませんけれども、しかしそれが本当にそうであったとしたら。
私共の人間の向上はないと思うそれの一例としてですね、南方の国々の人達が非常に怠け者が多いと云う事、所謂不精者が多いんです、というのは別に張り切って仕事をしなくても、食べる事には事欠かないのですよね。野性の果物とか、野菜類でも殆ど手を施さなくても、手近に食物があると云う事なんです。着る物というても、年中常夏の国ですから、着物がいらない訳なんです。
ですからただ享楽、そう云う事だけ追求して、人間の本当の値打ちと言った様なものを追求するとか、自分の仕事、技術に打ち込むとか、言った様な事が、だんだん少なくなっている。結局劣等国の例の様に、連なるより他にない事になって来る訳なんです。私共が本当に平穏無事にと祈る心は皆んなが持っておるんですが、世の中というもの、自然の働きというものは、決して甘いものではないと云う事。
いわゆるお天気の日ばかりではないと云う事、雨もあれば風もあるんだと、それこそ大地が揺れ動き、大地が裂け割れる様な事すらあると云う事。信心とはね、そういう中にあって、いよいよ信心の芽を開き、人間の尊さを発揮していける、生きる幸せというものを、そういう中から頂いて行くと言う事、そこで信心の教えの尊さというものを感じます。結果において、どう云う事になるかと云う事を、信心のある者と、無い者とは、親のある子と無い子ほどの違いがある。
例えていうなら浮浪児なんかが、誰も干渉するものがいない、親がいない、ですから自分の気ままな事が出来る訳なんです、その代わり洋服が破れておろうが、汚れていようが、頭が伸び放題伸びておろうが、誰もそれをみてくれる者もいない、けれどもそこに親があり、それをみてくれる者がありますと、押さえ付けてでも頭を刈ってやろうとする。掴まえて汚れておるなら、それを洗ってやろうともする、垢の付いたものは着せんと、言うようにです親のある子とない子の違いを、そう言う所に感じるのです。
信心のある者が無い者の姿を見て、いうなら気ままな生活をしておる、そういう状態に触れて、ああ親の無い子がうらやましいと言う様な事ではならんけれども、実際信心のある者でも。そんな事を考える様な人があるやも知れません、ああ、信心が無いなら毎日参らんでもよかばってん、信心がなかなら、お賽銭もいらんけれども、例えば極端にいうと、信心があるばっかりに、自分を窮屈な困ったというておる様な、それでいて信心を止めもきらんと言った様な、つまらん信心をしておる者も、沢山あろうかと思う。
ほんに何時まで参らなならんじゃろうかと。言った様なもんです、言うなら親があればこそ躾けもする、解らなければ叩きもする、そして本当な方え、本当な方えと導いてくれようとする、その親の願いに対して、それに応えて行く生活を信心生活と思うんです。紆余(うよ)曲折と云う事を申します、所謂曲折のある人生と。私は様々な問題があって良いと思う、一つの事柄がです、只順調にスムーズに行く事だけが、おかげではないという事、成程、神様のおかげを頂きますと。
それこそ神様の御守護を受けておるんだなと、それこそ今の言葉で云うのならば、素晴らしいタイミングの中にです、本当に神様の御守護を受けておるんだなという、実感をさせて貰わなければおれないような、お繰り合わせを頂くもんです。かというとですね、そういう事だけではない。右と願えば左左と願えば右と言う様な場合の中にもです。勿論神様の働きを感じます。それを実感致します。
神様の御都合だなと、思わん訳には参りません。ですからそういう中にあって私共は、判る所は判らせて貰う、今迄判らなかった事を気付かせて貰う、いよいよその事によって、その事を通して、難儀なら難儀という問題を通して、その曲折を通してです、私共が向上して行く。だから結果において、あの事があったおかげでと云う事になるのです。あの問題のおかげでと云う事になるのです、是を信心の無い者は、そこんとこをどう云う事かと言うとですね。
本当にああ云う事が無かったら、今頃はもっと増しなものが生れておったろうと、言った風にしか考えません。様々な、雨やら風やらと言う様な曲折の中に、人生を信心なしに通りますとですね、それこそ甘いも酸いも噛み分けた人間にはなりますけれど。なんとはなしに頑固さというものが出て来ます。それは結果のその事柄をいちいち、そのおかげでというものにしていないからなのです。
ああ云う事があったというおかげでと、おかげにしていないからです、信心なら一つ一つを、ああいう事のおかげで、こういう難儀のおかげでという結果を見ていくので。あれもおかげであった、是もおかげであったと云う事になるのです。ですから、愈々神様のお働きの間違いのなさの中に、紆余(うよ)曲折の中にあっても、神様のお働きの中にあるんだ。しかもこう云う事を解らせて下さる為だったんだという、神様の思いというか、神愛というか、そういう神愛に触れさせて頂いて行くのですから。
一年一年信心させて頂いておれば、有難うなって行くんだなあという事が解るのです。年を拾うて行けば行く程にです、有難うなって行くのです。ですからその曲折を私共は困った事だとしてはならないのです。それを必ずおかげにして行こうという確信を持っての信心、そうでなければ解らせて頂こうとする、意欲が必要になるのです、昨日ある方の取次をさせて頂きました。
願い事が実に順調に本当に神様がお許し下さった筈だ、こういうおかげを頂いて一家中の者が、心の底から有難いと言わねばおれぬ様な事に出発し、そしておかげを頂いてと言って、進んで行きよった所がそこに曲折があり、ここに障害があるという事なんです。その方に申しました。その曲折、その障害を乗り越えていく、然も我で乗り越えて行くのではない神様のおかげで、神様の御都合でそこを乗り越えて行く所にです。
矢張り元気な心がいるんですもんね、と云う事なのです。そして成就した暁にです、それこそスム―ズにいったら、十の有難さであろうけれども、それは紆余曲折を通らせて頂いて、成就した時の有難さというものは、もう百や二百じゃない。神様に此の様な働きを頂いて有難いという。同時にその紆余曲折も又、障害も神様の御都合であった。おかげであった。親があるからこそ、神様の働きの中にあったんだと云う事が分る。
その事を私、お届けをさせて貰ましたらね、御心眼に頂きます事はですね、その方達が親子で、田植えの時に雨笠つけるでしょう。蓑を付けるでしょう。身体を曲げて、一生懸命田を植えようとしておられる姿を頂くんですよ。成程実りのおかげを頂く為にはですね、八十八回という大変な手がいると云う事で御座います。だから米という字は、八十八と書いてあると昔の人は云うんですね、確かに八十八回の喜びではありますまいけれども、私は百姓した事がないので分りませんが。
私が知っているだけでも、田の草を取る、肥料を施す、あの暑い中にです、籾から米にならせて頂いて、その米がご飯になる所謂、ままになる所のおかげを頂くまでには、八十八回所ではない。沢山の手数を要するので御座います。ああめんどくさい、種をまいただけでほったらかしている、ああこの暑い時に外に出るのはもういやだ、といった結果ではどう云う事になるでしょう。
その一つ一つ実意丁寧に除草しなければならない時には除草する。肥料を施さねばならない時には肥料をやる。油を入れなければならない時には油を入れる。刈り取る時期が来たら。刈り取らせて貰う籾にする袋にすると言うように。様々な手を入れなければ、ままになるおかげにはならんのです、そこの所を一回でも疎かに致しましたらそれだけで赤字であり、それだけでは欠損でありそれだけでは不作なのです。
私は全ての事がそんな事だと思います。一つの事が成就していく為には、成程神様の、御守護を受けておるんだなという実感の中にです、スム―ズな時にも、そうでない場合でもそれを感じれる信心、そこで教祖は、元気な心で信心せよと、こう仰るので御座います。元気な心でなければ、有難い心でなければ、そこんところを乗り越えていけない事もあるので御座いますが。日々お取次を頂いて進めて行く所に、一切が成就になって行くおかげが受けられる。
お互いがどうぞ今日も、平穏無事でと願うのは、人間の常であるけれども、その事だけがおかげではない。そう願わして頂く事は、いいのだけれども、願っても平穏でない場合もあれば、無事でない場合もあるという事。そういう時をいよいよ大事にして行く所の信心を、身に付けて行かなければならないと、今こそ腰が痛いけれども身体を曲げて、田を植えておる時であろうか。今田の草を取っている時であろうか。と言う様に、そこん所を感じさせて貰う、そこんところを楽しく元気に、やりぬいて行かなければならんと思うので御座います。
どうぞ。